3)従業員の健康と企業経営を巡る新たな課題
第1章でも見たように、「健康いきいき職場づくり」に代表される、職場のメンタルヘルスに関するポジティブなアプローチを起点とした動き、中でも従業員の健康やそれに大きな関わりを持つ職場環境、マネジメント、働き方等に関心を寄せ、従業員をさらに引き付け、会社と従業員双方の成長を見据える動きは、近年加速してきました。そのことは、例えば健康経営優良法人への申請数の急増等の形に表れています。背景には、生産年齢人口の減少や、急速な環境変化に伴う変化に適応しつつイノベーションを起こせる環境や人材確保の必要性が高まったこと、近年のESG投資に代表される人的資本投資重視の流れ等があるのは既述の通りです。しかも、コロナ禍により、感染症対策や、それに伴う在宅勤務等により、働き方や職場のあり方が否応なく見直しを迫られる中で、経営における健康への関心は高まりました。
しかし、このように従業員の健康づくりへの関心が高まる一方で、既存の健康管理部門中心の「健康管理」と、健康づくりをより幅広く捉え、いわば健康づくりを経営へ統合し、企業のミッションを実現し、一方で従業員のウェルビーイングの実現を図るための起点として位置付ける健康経営の相違が理解されていないきらいもあります[1]。
例えば、大企業においては、部門のセクショナリズムが存在しがちで、健康経営を標榜した健康管理部門の活動が、他部門、例えば人事や経営企画との連携を十分にとることができず、結果として経営活動に対してインパクトを持たぬことが多く見受けられます。また、健康経営を進めるにしても、最終的な目的やその実現度合いを示す経営視点での成果基準が明確でなく、健康経営を推進するメリットを示せないこともあるようです。逆に、中小企業においては、人的リソースの限界もあいまって通常の健康管理すら十分でないケースもあり、形式的な取り組み以上のことを進められないことが依然あります。
これに限らず、職場のメンタルヘルスや健康増進に関わる活動は、社会的な重要性が喧伝されつつも、実運用ベースでの課題が残っている部分が大きいようです。例えば、2015年に50名以上の事業場で義務化がなされたストレスチェック制度が挙げられます。職場のメンタルヘルスに関して定量的な状況把握を図るツールである一方で、往々にして実施目的は「法的義務だから」ということになりがちで、職場や働き方に対して大きな示唆が得られるはずの集団分析結果等の活用についても、改善は進んだものの課題を抱えたままの状況です[2]。
また、ストレスチェックの結果を利用した対策立案についても、往々にして現場部門への負担として認識されるケースが多いのが実情です。特に、前項で触れたように、コロナ禍によりさらに負荷が増し疲弊しがちなミドルマネジメント層が、部門メンバー一人ひとりに改善施策の有効性を伝達するのは容易ではありません。同様に、当のメンバーが改善施策について、当事者意識を持てず、どこか押し付けられたものという認識を持ったままでは、せっかく良い制度を導入しても空文化してしまうことが危惧されます。
さらに、ここまで述べてきた動きは、まだ大企業中心の部分があり、中小企業も含めて社会の隅々まで浸透しているかと言えば、そうではない状況と言えます。しかし、近年、欧州を中心にビジネス現場における投資判断や取引先企業の選定の際の対象企業の調査「デューデリジェンス」の中に、事業内容、財務、法務等に加えて、人権を尊重することが求める「人権デューデリジェンス」[3]の機運が高まっており、その中には労働安全衛生も含まれます。この動きは世界的な流れになりつつあります。今後企業は、サプライチェーンに関与する企業等についても、従業員の健康管理を含めた人権への配慮をどのように行っているかを把握し、場合によってはこれを支援することも求められるようになる可能性があります[4]。
ここまで見てきたように、従業員の健康づくりを企業・組織の活性化につなげる広義の「健康いきいき職場づくり」の重要性はこれまで以上に増したと言えます。しかしながら、それを経営活動との統合や、企業とそこで働く従業員の持続的な成長にまでつなげる活動に昇華させ、かつそれを組織内に浸透させ、さらに企業や地域の別なく導入してもらう道筋は決して容易なものではありません。
従って、「健康いきいき職場づくり」をSociety 5.0を迎える時代において実践する上では、“これまで”の成果を活かしつつ、一方で“現在”の課題を整理し、さらに上述したような直近の変化を踏まえた上で、“これから”の「健康いきいき職場づくり」を考えていくことが求められます。
[1] 既に触れたように、経済産業省では、健康経営を「従業員等の健康管理を経営的な視点で考え、戦略的に実践すること」と定義しており、健康管理を包含しつつより大きな目的のもとに位置付けている。
[2] 前掲日本生産性本部第10回「メンタルヘルスの取り組み」に関する企業アンケート調査結果より。
[3] 「企業活動における人権への影響の特定、予防・軽減、対処、情報共有を行うこと」とされる。「ビジネスと人権」に関する国際的潮流の中で、「OECD多国籍企業行動指針」や「ILO多国籍企業宣言」の策定、国連グローバル・コンパクトの提唱等がなされていることを受け、本邦でも関係府省庁連絡会議により、「ビジネスと人権」に関する行動計画(2020ー2025)が策定されている。概要は以下を参照。https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/press4_008862.html
[4] 同分野の動向に関しては以下を参照。https://www.ilo.org/tokyo/information/terminology/WCMS_834804/lang--ja/index.htm