1)職場のメンタルヘルスに関連した取り組みの沿革
職場のメンタルヘルスを巡る問題は、1984年に民間企業でのうつ病の労働災害がはじめて認定されたこと、さらに1998年に自殺者が年3万人を突破したこと、2000年には過労自殺の民事訴訟の最高裁判決が出されたこと等を受け、過重労働によるメンタルヘルス不調の予防と対応が社会問題として認識されるようになりました。2000年代中盤には、メンタルヘルス不調による離職、休職等が急増し、企業経営の面からもメンタルヘルス対策が重要になってきました。
このような情勢下で、2000年に厚生労働省より「事業場における労働者の心の健康づくりのための指針」[1](現在の「労働者の心の健康の保持増進のための指針」[2]の前身となるもの)が公表されたのを皮切りに、以降本邦では事業場における職場のメンタルヘルス対策が普及してきました。例えば、上記指針では、いわゆる「4つのケア」として、セルフケア・ラインによるケア・事業場内産業保健スタッフ等によるケア・事業場外資源によるケアが提起されました。また、精神面の不調からの復職に向けてのフォローを行うべく、「心の健康問題により休業した労働者の職場復帰支援の手引き」[3]の整備も進められました。さらには、それまで事業場の任意とされてきたストレスチェック制度についても、2015年より50名以上の事業場については実施が義務化されました[4]。精神障害の発症に大きな影響を及ぼすとされるパワーハラスメントについては、2020年6月より大企業において対応が義務化されました[5]。また、増え続ける精神障害に起因した労災認定の判定に関連し、2011年には心理的負荷による精神障害の認定基準が策定され[6]、以降認定基準はその時の状況に応じつつ改訂を重ねています。これらの動きに合わせ、長時間労働に対する企業現場での対策も進められました。
このような対策の結果、メンタルヘルス対策を行う事業場の割合は増加し、令和2年には6割を超えました。特に50名以上の事業場では90%を超えるまでになっています。ストレスチェック制度についても50名以上の事業場での実施率は8割を超えています。ストレスチェック制度に伴う集団分析の実施やその結果の活用についても、制度を実施した50名以上の事業所のうち3分の2以上で実施されています[7]。職場のメンタルヘルス対策は、少なくとも50人以上の規模の事業場では普及が進んでいると考えられます。
とはいえ、職場における心の健康問題は解決に至ったとはなお言い難い状況です。例えば、日本生産性本部が隔年で実施している企業向けのメンタルヘルスの実態に関するアンケートでも、いわゆる「心の病」の増減については、「横ばい」が最多を占めるトレンドが続いており、なかなか減少には至っておりません[8]。また、精神障害等に起因する労働災害の請求件数もなお増加する傾向にあります。現在のメンタルヘルス対策をさらに普及・充実するとともに、より多面的なメンタルヘルスの取り組みが求められています。
図表1:「心の病」の増減傾向について
出典・公益財団法人日本生産性本部 メンタル・ヘルス研究所
第10回「メンタルヘルスの取り組み」に関する企業アンケート
これまでの対策は、企業側から見ると、精神障害等の労働災害や過労自殺を未然に防止し、これによる企業の社会的評価の低下、金銭的損失を避けるという法的・行政的なリスクのマネジメントを主眼として行われてきたとも捉えられます。しかしながら、こうしたアプローチだけでは、2000年代初頭以降続いてきた、企業現場におけるより大きな変化に対応しきれぬきらいがありました。この時期には、それまでの高度経済成長下の企業・組織運営が行き詰まりを見せていました。そのような中、いわゆる「リストラ」に代表される、雇用の不安定化と雇用者と従業員の関係の変化、人事評価制度の変化等を背景とした、職場コミュニケーションや助け合いの低下、つまり「職場寒冷化」[9]が発生したとされています。そして、こうした変化が従業員のメンタルヘルス不調の増加に影響を与え、ひいては日本の企業活力にも悪影響を与えてきた可能性が指摘されています。
このような職場環境やコミュニケーションの質と量の変化は、健康管理というよりはむしろ経営やマネジメントの要因の影響が大きいと考えられます。しかし、職場のメンタルヘルス対策は、どちらかというと産業保健スタッフを中心とした健康管理部門中心でなされることが多く、こうした組織要因に着目した対策を取りづらい面がありました。健康管理を中心とした枠組みにとどまらず、経営層・人事労務部門がより積極的に職場のメンタルヘルスに関わり、経営視点で従業員の心の健康を捉え、対策を行っていく必要性が生じてきました。こうした考え方は、現在、多くの企業・組織で共有されています。
[9] 職場が本来有する「協働」「人材育成」「所属」「同質化(社会化)」といった機能が企業の合理化等によって棄損されたというもの。川上憲人・守島基博・島津明人・北居明著 健康いきいき職場づくりフォーラム編『健康いきいき職場づくり~現場発組織変革のすすめ~』(2014 生産性出版)第3章参照。